『知恵の樹』のこと

知恵の樹書影

自分に大きな影響を与えた本を何冊か挙げろと言われたら絶対に推すだろう本の一冊が、このマトゥラーナとヴァレラ(管啓次郎訳)『知恵の樹』です。先日紹介した千野帽子氏の『人はなぜ物語を求めるのか』の読書案内に出てきて、久しぶりに思い出しました。

いまは「ちくま学芸文庫」に入っていますが、最初に読んだのは朝日出版社から出ていた大型版でした。「オートポイエーシス」の思想家として知られる2人ですが、正直言って『オートポイエーシス』(国文社)という本自体は、わたくしめには難しすぎて挫折しましたけど、その簡単な解説とも言われる本書はなんとか読了できたし、印象に残るフレーズがそこここにありました。誤読している可能性はあるのですが、仮に誤読であっても自分の考え方に大きな影響を与えていることは間違いありません。チリではこれが高校の生物の教科書だったというんだから、すごいですね。

自分として受け取っている一番のメッセージは、ヒトは生物、とりわけ言語を媒介とする社会的な生物だよということ。当たり前の指摘のようですが、しかし著者たちは、それゆえに、

競争から真理の所有、さらにはイデオロギー的確信にいたる、他者を受け入れることの土台を切り崩してしまうようなすべては、社会的プロセスの土台をもやがて切り崩してしまうことになる。なぜならそれは、社会的プロセスを生み出す、生物学的プロセスの土台を切り崩すからだ。(ちくま学芸文庫版のp.300:以下同)

と、「分断」がヒトの生存基盤を脅かす可能性があるよと指摘してます。特に「真理の所有」「イデオロギー的確信」というあたりはほんとに気をつけないといけないよなと思います。

言語とは、誰かによって、外部世界を取り込むだけのために[世界を表象するために]発明されたものではない。したがって、それは外部世界を明らかにするための道具として使われることはできない。そうではなくて〈言語する〉ことによって、言語という行動の調整の中で、認識[知ること]という行為が、〈世界〉を生じさせるのだ。(p.285)[ ]内は訳者による補足説明

僕らが集団的に〈言語する〉ことの作動的一貫性の、この新しい次元こそ、僕らが〈意識〉として「僕らの」〈精神〉並びに〈自己〉として、経験するものなのだ。(p.282)

あらかじめ存在している自己が、言語によって世界を知る、というようなイメージをわたしたちは持っていますが、著者は、社会的な生物としてお互いの行動を調整するために〈言語する〉ことが、結果として〈精神〉や〈自己〉や〈世界〉を生じさせているんだよ。だから「真理を所有」していると思い込んでしまったり「イデオロギー的確信」ゆえに人びとの間に対立を生じさせるようなことは、ヒトの生物的基盤を切り崩してしまうのだよと言うわけです。

認識についての認識は、強制するのだ。それは確実さ[確信]の誘惑に対して常に警戒的な態度をとるように、ぼくらを強制する。確実さは真実の証拠ではないのだと、認めることを強制する。みんなが見ている世界は、唯一の世界なのではなく、ぼくらが他の人々とともに生起させているひとつの世界でしかないのだと、はっきりと理解することを強制する。(p.296)

争いとは、常に相互的な否定だ。争う者たちが「確信」を持っているとき、争いは、生じた場所では決して解決され得ない。争いは、ただぼくらが、共=存在が生じるようなもう一つの場所[反対物の一致を見出せる、より広いコンテクスト]へと移動したときのみ、消滅する。この認識を認識することが、人間を中心に据えたエシックスのための社会的命令[規則]となるのだ。(p.298)

正直言って、ここまで「確信」を警戒できないだろうし、違う意見に対して寛容になることはとても難しいだろうなとは思いつつも、これらの言葉たちをアタマの片隅にでも置いておきたいなと思ってはいますです。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。