「分人」とか複数のアイデンティティのこと

平野啓一郎『私とは何か』書影

ちょっと前の本なんですけど、平野啓一郎氏が言う「分人」という概念が、最近いろいろいいなと思っています。

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。

分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。

平野啓一郎『私とは何か』(講談社現代新書)まえがき より

メディアも発達して人間関係も複雑化している中で、唯一無二の「個人」というような概念が、みんなを生きにくくしているんじゃないのーということかなーと読みました。

確かに、いろんな関係性がある方が、例えばどっかの関係性の中で大ポカをやって落ち込んだとしても、いったんそこを離れて別の関係性の中に身を置けば、救われるというようなことはよく経験しますよね。

そんでもって、そのどれもが「本当の自分」だよと。なんか肩の力が抜けていいじゃないですか。首尾一貫したアイデンティティを保とうとギチギチやってるからツラいのかもしれないじゃないですか。

まあ、わたくしめなどはフリーランスなので、仕事の関係の人間関係もいろいろですし、さらに楽団などもやっていて、それぞれに違う顔を持っているので、これはすごくよくわかるというか、そうせざるを得ないというか、そんな感じなんですけど。

で、そういう「分人」が、社会の分断に融和ももたらし得るんじゃないの、というところが個人的には印象に残りました。

二〇〇〇年代に入り、幾度となくテロリズムを経験して、私たちは距離的に遠い他者といかに和解し得るかという大問題を突きつけられた。他方で、ネットの登場により、他者の圧倒的な多様性も経験した。この二つの問題は、『決壊』以降、一貫して私の小説のテーマだった。

私たちは、個人として一つのコミュニティに参加している以上は、コミュニティ同士の対話によるしか融合の手立てがない。そして、それは常に極めて困難だった。しかし、先ほど見たように、私たちの内部の分人には、融合の可能性がある。意識レヴェルでも、無意識レヴェルでも、相互に影響を及ぼし合っている。

私たちは、一人一人の内部を通じて、対立するコミュニティに融和をもたらし得るのかもしれない。

平野啓一郎『私とは何か』(講談社現代新書)p172-173

分断、なんだか身近でも、増えてる気がして、ちょっと心配だったりもするので、多少なりとも希望につながればと思うですけどね。

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